1 きつねうどん ★ :2023/01/22(日) 15:54:02.41ID:72BcYQKV
1960年代にDOHCの軽自動車?それも軽トラ?

(出典 car-moby-cdn.com)
Sシリーズ各車「俺たちを差し置いて軽トラが壇上ってどうよ?」という声が聞こえてきそうな、ホンダコレクションホール
今でこそDOHCエンジンの軽トラは当たり前、DOHC4バルブで電子制御インジェクション、パワーのためではなく環境対策もこれでバッチリという時代で、何ならEV化の優先度も高いくらい時代の最先端を突っ走っています。
しかしそれがDOHC2バルブエンジンですらまだ珍しいどころか、国産市販車にDOHCエンジンなんてない!という1963年に発売してしまった*軽トラがホンダのT360です。
スペック的には2気筒SOHCのTN360でも十分実現できているのに、わざわざ4気筒DOHC、それもホンダ”S”シリーズと同系統で4連キャブレターまでおごってしまいました。
ホンダコレクションホールの展示車には「スポーツトラックと言われた」と解説を添えてありますが、本当でしょうか?
実験車から一転、S360とともに急遽作られた軽トラT360

(出典 car-moby-cdn.com)
DOHCエンジンのすごい軽トラの後ろには、同じくDOHCエンジン搭載のライトバンL700が
2輪で成功後、1950年代末には4輪車への進出を目指して試作車の開発を開始、ただし生産・販売体制にメドがつくまで安易に4輪へ進出すべきではない、とも言っていたのは、ホンダのカリスマ創業者、本田 宗一郎氏です。
しかし、通産省(現在の経済産業省)が「大メーカーから有象無象まで群雄割拠してるこのままじゃ、国際市場で日本車は勝負にならないはず」と、頼んでもいないのに親切にもメーカー再編、新規参入お断りの方針を真剣に検討し始めてしまい、状況が変わります。
一刻も早く自動車を出さねばならず、それには時間をかけて試作車の評価をしている場合ではなく、通産省の横槍が入る前に急いで作り、すぐに発売できるクルマでなければなりません。
そこでアルミ製V型4気筒SOHC強制空冷エンジンを積むFF軽乗用試作車XA170はお蔵入りとなり、ともかく需要が見込めるのは軽商用車だから軽トラを作ろう、というところで本田 宗一郎氏が「スポーツカーも作れ」と言い出し、後のT360と幻のS360を開発開始。
軽自動車だけでなく小型車への参入実績も作るため、S360は拡大版S500へ発展、T360は1963年8月、S500は同年10月に発売しますが、通産省の親切なアイデア(法案)はその頃にはお蔵入りとなっていて、結局壮大なから騒ぎのドサクサでホンダは4輪進出を果たします。
DOHC4連キャブレターのスポーツカーならぬ軽トラ
T360は、当初4輪にあまり積極的でなかった本田 宗一郎氏が横から入ってからは熱心になり、デザインも自身が手掛けた…とされています。
特にフロントの巨大な「H」マークはボンネットの補強リブを兼ねており、その合理的発想はエンジニアとしても優秀だったという宗一郎氏を象徴するエピソードのひとつで、フロントがウィッシュボーン、リアがリーフリジッドの足回りも保守的ながら堅実で合理的です。
さらにシフトレバーは左右に大人が、真ん中に子供が乗っても邪魔にならないよう運転席の右側に配されるという、ユーザー本位な親切設計。
しかし問題はエンジンで、設備的な問題から組み立て式クランクシャフトを採用したのは仕方ないとして、ニードルローラーベアリングや4連キャブレターは明らかにやりすぎで、軽トラというよりレーシングカーのエンジンのごとし。

(出典 car-moby-cdn.com)
Sシリーズ各車「俺たちを差し置いて軽トラが壇上ってどうよ?」という声が聞こえてきそうな、ホンダコレクションホール
今でこそDOHCエンジンの軽トラは当たり前、DOHC4バルブで電子制御インジェクション、パワーのためではなく環境対策もこれでバッチリという時代で、何ならEV化の優先度も高いくらい時代の最先端を突っ走っています。
しかしそれがDOHC2バルブエンジンですらまだ珍しいどころか、国産市販車にDOHCエンジンなんてない!という1963年に発売してしまった*軽トラがホンダのT360です。
スペック的には2気筒SOHCのTN360でも十分実現できているのに、わざわざ4気筒DOHC、それもホンダ”S”シリーズと同系統で4連キャブレターまでおごってしまいました。
ホンダコレクションホールの展示車には「スポーツトラックと言われた」と解説を添えてありますが、本当でしょうか?
実験車から一転、S360とともに急遽作られた軽トラT360

(出典 car-moby-cdn.com)
DOHCエンジンのすごい軽トラの後ろには、同じくDOHCエンジン搭載のライトバンL700が
2輪で成功後、1950年代末には4輪車への進出を目指して試作車の開発を開始、ただし生産・販売体制にメドがつくまで安易に4輪へ進出すべきではない、とも言っていたのは、ホンダのカリスマ創業者、本田 宗一郎氏です。
しかし、通産省(現在の経済産業省)が「大メーカーから有象無象まで群雄割拠してるこのままじゃ、国際市場で日本車は勝負にならないはず」と、頼んでもいないのに親切にもメーカー再編、新規参入お断りの方針を真剣に検討し始めてしまい、状況が変わります。
一刻も早く自動車を出さねばならず、それには時間をかけて試作車の評価をしている場合ではなく、通産省の横槍が入る前に急いで作り、すぐに発売できるクルマでなければなりません。
そこでアルミ製V型4気筒SOHC強制空冷エンジンを積むFF軽乗用試作車XA170はお蔵入りとなり、ともかく需要が見込めるのは軽商用車だから軽トラを作ろう、というところで本田 宗一郎氏が「スポーツカーも作れ」と言い出し、後のT360と幻のS360を開発開始。
軽自動車だけでなく小型車への参入実績も作るため、S360は拡大版S500へ発展、T360は1963年8月、S500は同年10月に発売しますが、通産省の親切なアイデア(法案)はその頃にはお蔵入りとなっていて、結局壮大なから騒ぎのドサクサでホンダは4輪進出を果たします。
DOHC4連キャブレターのスポーツカーならぬ軽トラ
T360は、当初4輪にあまり積極的でなかった本田 宗一郎氏が横から入ってからは熱心になり、デザインも自身が手掛けた…とされています。
特にフロントの巨大な「H」マークはボンネットの補強リブを兼ねており、その合理的発想はエンジニアとしても優秀だったという宗一郎氏を象徴するエピソードのひとつで、フロントがウィッシュボーン、リアがリーフリジッドの足回りも保守的ながら堅実で合理的です。
さらにシフトレバーは左右に大人が、真ん中に子供が乗っても邪魔にならないよう運転席の右側に配されるという、ユーザー本位な親切設計。
しかし問題はエンジンで、設備的な問題から組み立て式クランクシャフトを採用したのは仕方ないとして、ニードルローラーベアリングや4連キャブレターは明らかにやりすぎで、軽トラというよりレーシングカーのエンジンのごとし。